けせん震災と昔の記憶

けせん震災と昔の記憶

特集記事

Feautured Article

文化
受け継がれる祭 陸前高田の七夕

文化

2020.12.18  お相手:菅野富也さん・斉藤正彦さん

 陸前高田市民が毎年心待ちにしているのが、毎年8月7日に行われる高田町うごく七夕まつりと気仙町けんか七夕まつり。東日本大震災がもたらした大きな被害を受けても、地元住民の、お祭りと地域に対する誇りと愛情で復活した祭りです。 今回は、うごく七夕 大石組の公民館長 菅野富也さんと大石組代表 斉藤正彦さんにお話を伺いました。
高田町の「うごく七夕」 「うごく七夕まつり」は、それぞれの個性あふれた煌びやかに飾られた山車がお囃子にあわせて、太鼓を勇ましく叩き「よ〜いよい」と高田町内を練り歩く幻想的な祭り。 震災では、12台あった山車(大石、鳴石、森の前 駅前、大町、荒町、和野、川原、中央、松原、長砂、沼田)のうち8台が流され大石組の山車は、助かった中の1台でした。 震災時、山車の倉庫は仮設の共同風呂になり、公民館には沢山の支援物資が運ばれ、地域住民に喜ばれる重要な場所になりました。
うごく七夕1

気仙町の「けんか七夕」

「けんか七夕まつり」も豪華絢爛に飾りつけをし、太鼓の乱れうちと共にロープを引っぱり合い、杉の丸太がくくりつけられた山車をぶつけ合います。 山車と山車をぶつけあう瞬間は文字通り「けんか」する大迫力の祭り。 東日本大震災の際に4基あった山車のうち3基が津波で流され2011年は1基で巡行。2012年に新たに1基が新調され、2013年には震災前と同じ場所でのけんかが実現しました。 山車と山車が、ぶつかり合う大きな音、震災にも、色々な問題にもがんばっぺし、負けてたまるかと聞こえてきそうな感動がそこにはあります。
うごく七夕2

祭りの準備

大石組の山車の飾り付けは、和紙を染めて手で折った紙飾り「あざふ」を数万枚用いて飾り付けたもの。 1枚1枚ご先祖さまや鎮魂の願いを込めて作ります。 提灯に花紙をはったりする準備作業を、いろんな地域から集まっていただいたボランティアさんが協力してくれていますが、まだまだ人手不足だそうです。 昔から、うごく七夕まつりの時期が近づくと高田町の人々はそれぞれの集落の公民館に集まり、みんなでその年の山車の装飾を作ってきました。 人と人との繋がりが強く、近所同士で助け合いながら暮らしてきたこの街は、七夕まつりをきっかけに集まることこそが、コミュニティーの結束を確かめる一つの行事だったのかもしれませんね。

祭りの復活

2011年8月7日、大石組は、山車に飾りつけをし、まだガレキの残る街を練り歩きました。 家族や仲間を失った場所での太鼓や笛の音色は、とても悲しい音だったと話します。 飾る山車すらない祭組の方達に、それぞれの場所で太鼓を叩かせました。 震災前は、他の祭組を山車に乗せる事はご法度だったそうですが、山車に上げた事で他の祭組も山車を作る意欲が湧き、2013年には、12台全ての山車が復活しました。 数百年もの歴史があり、江戸時代より受け継がれてきたこの祭り。 菅野さんは、「大石組は、斉藤さんに任せた、望み通りにやってくれているので安心して見守りたい」との話すのに対し、斉藤さんは「技術もまだまだで富也さんに教えてもらう事や相談もしたいので、これからも宜しくお願いします」と語っていました。 高田町うごく七夕まつりと気仙町けんか七夕まつり。 祭りに対する熱い絆や思いは、また次の世代にバトンが渡された後も輝き続けることでしょう。
うごく七夕3

取材者:けせん地域取材チーム あーきぃ

プロフィール写真

菅野富也さん・斉藤正彦さん


陸前高田 大石公民館館長 菅野富也さん 40年以上うごく七夕に関わり、大工の職業を生かし、大石組の山車を作った人の1人。震災時は、公民館や山車の倉庫の片付け、現在も、公民館長や、若い世代への指導など、大石組を支えている。 大石組 有志会代表 斉藤正彦さん 2011年から10年大石組の代表を務める。震災では、家を失い避難所生活のかたわら、消防団での救助活動や瓦礫撤去、ボランティア団体の対応をしてきた。震災後もすぐに、うごく七夕の準備を始め亡くなった親友や仲間へ鎮魂の祈りを込めて太鼓を叩いた。陸前高田では、有名なお祭り男。