しいたけを露地栽培していた。日陰で雨の当たる場所でよく育つから、ここがよかったみたい。
浦祭りでは、「お魚がたくさんとれるように」と大漁を祈願して船が海をぐるぐる回ったんだよ。
じーちゃんが海藻のノリを養殖していたから、1枚ずつ手で加工して四角い海苔にして漁協に売ってたの。好きな作業ではなかったけど、じーちゃんが張り切っていたから一緒になってね。イワシもいっぱい捕れたから、共同納屋があった。
林業をやっている家は馬を飼っていたの。昭和の終わり頃までいたかなぁ。馬が川で水遊びしている姿が可愛かった!
海の仕事をしない人は石山で鉄鉱石を採ったの。船まで運ぶためにトロッコに積んで山道を降りた。大船渡の工場に持って行って売ったんだよ。
1月5日は加茂神社で五日堂祭もあって、旧年うるう年の翌年に加茂神社の大神様を神輿に移す。剣祓と呼ばれる弊で神輿に潮水を振りかける「潮垢離(しおこり)」をして御神威を新たにし、地域の人たちに見守っていただくんだよ。
正月のお祭り「柴木まつり」は4年に1回の1月3日に開催している。伊勢神楽がお囃子を演奏しながら旧家の賀美家に向かって、そこの庭で、伊勢の神様にご神霊を山車に移すんだよ。打囃子は子どもたちの担当だった。加茂神社の神輿のお供である沢虎舞もあって、町屋敷が賑わった。伊勢神楽や沢虎舞が練り歩いた地域の田畑は豊作になると言われているの。
毎年8月31日の志和神社に参家する日に、定置網をやっている人たちが海を挟んで提灯をかけた。
使わなくなった畑を小さな広場にして、町内運動会を開いていた。子どもだけでなく大人もみーんな参加して、親子3代リレーとか、伝言ゲーム大会なんかをやっていたなぁ。
大沢漁港までおにぎりを持っていって、まだ小さい孫の子守りをした。3人孫がいたから、前と後ろにおぶって、さらに乳母車も押して歩いていたね。
自分の家が写った空撮写真を売りに、業者がたずねてきたことがある。そうしたら、その写真にたまたま自分まで写っていたからびっくり。ヤッケを着て、家の前の道路で一輪車を押しているところだった。その写真は今でも、我が家に飾ってあるよ。
大雨が降ると川が氾濫するから避難するよう言われていた。実際、川が氾濫すると近くの道路は歩けないくらい水かさが増えてきた。家の縁の下まで水が入ってきたこともあったね。
かさ上げ工事で切り崩す前の山には、自分の家の畑があってね。きゅうりやねぎなど色んな野菜を育てていた。
魚市場に勤めていたので、帰ってくる頃には体中が魚のにおい。魚の差し入れも毎日のようにあったな。
戦後すぐ、みんながこの一帯で商売を始めた。お店が長屋のように連なってできた二階建ての建物になって、「中央マーケット」という場所になった。私のおじいさんも満州から引き揚げてきて、ここで商売をしていたよ。
陸前高田も含めた気仙郡の地域で、スポーツの大会をやった。一年に一回、陸前高田と交互に開催していて、大船渡でやる時は大船渡中のグラウンドを使っていた。
学校が高台にあるから、坂が大変。私の子どもたちも、いやだと思いながら登っていたと思う。しかも風が強くて、運動会のお昼なんかお弁当に砂が入ってきてね。だからある時から、体育館で食べるようになった。
50年以上前は神社と貯水池しかない場所で、家なんか建っていなかった。大船渡小からあぜ道を通って近道して、神社まで行って遊んだ。ふざけて津波警報塔に登ろうとしたらちょうど時報が鳴って、大きな音でびっくりしちゃった。
昔、サンマが多く取れた時期は、たまにこの道にサンマが落ちていた。魚の保冷車が曲がるときに、積み荷がずれて落ちたんだと思う。昔のサンマは、サバみたいに大きかったんだよ。
茶屋前の通りがよく栄えていて、おいしい居酒屋や洋食屋があった。映画館も、東映とか日活とか数件並んでいた。マイヤがあった場所にはもともと「千葉久」っていう、衣料品店よりもう少し大きいくらいの百貨店があってね、なんでも売っていたよ。
本当はここに入っちゃいけないんだけど、友達と忍び込んで遊んでいた。
何十年も前の、見張りがゆるい時代だからできたことだけどね。水面にクラゲが浮いていたから、友達に体を押さえてもらって、身を乗り出して針金で釣っていた。
花火大会は港が通行止めになるから、そこにみんなが集まって人でいっぱい。ビニールシートを広げて、マイヤで買ったお酒や食べ物を並べて花火見物した。
クルーズ船「飛鳥Ⅱ」がよく停泊していた。他よりも大きい船で、何度も見に行った。
むかしはね、細浦ってねぇ、すごかったんですよ。船がいっぱい入ってくるとこだったから。それこそ、バーとかスナックとか飲み屋さんがいっぱいあったり、船員さんはいっぱい出入りしてたとこだから。賑わってたの。
東日本大震災の津波で、大型漁船「第18共徳丸」と一緒に、私の家が流されたの。壊れずにそのまま流されたから、1階はだめだったけど2階はほとんどそのままだった。
の時期以外にもいろんな花が咲いたので、酒盛りしてた!あと、目の前の川を鮭が遡上していたので釣ってたね、本当はだめだけど……
この公園に桜並木があったの。うちの前にドドーンと桜の木があってねぇ。ブランコやベンチ、トイレもあった。
波板橋の両側でアサリがとれるから、堤防の階段を下がってとってたね。「工場が多いからここでとれたアサリ食べるのやだ」って言う人がいたり、とったのを海の沖さ持ってって1週間とかさらして持ってきたりっていう人もいた。
隣近所のばあちゃんたちが毎日おらいさ(私の家に)来て、たまり場になってた。波板橋に向かうまでの道は散歩コースだから、「変わった花ですね、見せてもらっていいですか」って上がってくるわけよ。花が好きで変わったのを庭にいろいろ植えてたから、みんなそれを見ながらお茶のみして帰るの。欲しい人にはあげてたよ。
知り合いが東日本大震災の時、やすらぎの3階にいた3~4人をさらしで結んで、屋上まで持ち上げて助けたって聞いたね。
ヤンマーディーゼルが飼っていた猿をよく見に行った。
ここがね、パーマやさんだったの。パーマをかけに行けば3、4時間くらい、今だったら1時間ちょっとでできるけど、半日くらいしゃべったりお茶飲んだりしてたなぁ。
海岸線は水産加工場がたくさんあるから、バスで唐桑から鹿折に入った瞬間に、においがすごいすごい!魚くさいっていうんだか粕くさいっていうんだか。気仙沼さ来たな、っていう感じ。よそから来た人に「この辺のにおいはなんだ?」ってよく聞かれたね。
マルハチ倉庫(神白水産倉庫)で働いてて、海岸から船に乗ってた。船から降りたら、やよいさんの後ろにあった食堂でラーメンを食べてたよ。
俺が中学生の頃までは、陸前高田とか盛でやるような七夕祭りをやってた。みんなで山車を引っ張ってたのね。昭和38、9年までだね。畑とかで悪さをするような子がいて、学校に通報されて中止になったんだけどな。
日中は暑かったから、夕方よく子ども達を遊びに連れて行ったね。天気のいい日は一本松の付近で、お弁当食べてピクニックみたいなことしたなぁ。この辺の海は綺麗だったから、海水浴もしたよ。ただ、海水浴の時期はわかめとかの海藻がいっぱい、あはは!
麦畑で麦踏みと称して畑で凧揚げしてました。浜からの風が上がってくるんですよ。松林では新葉拾いをして学校に持っていきました。
この辺でもクジラが獲れて、「ロクロク」のカメラで撮ったんだ。ミンククジラ、マッコウクジラ・・・・・・綾里沖とか碁石沖とか金華山とかでも獲れたの。奄美大島でザトウクジラを獲ったんだけど、衝突してあやうく地獄に行くとこだった。
サンマ船が出るときに、吹奏楽やってたのでお見送りですよ。紙テープも引っ張った。親戚一同で記念写真も撮りましたね。
近藤菓子店、船に大漁旗があると沖から入ってくる時にわかるから、私の母親がね、このお菓子屋さんとか酒屋さんから酒っことお菓子を積むんですよ。あぶら饅頭とか四方焼きとかチョコレート饅頭とか、甘いもの好きでそればっか食べてたから虫歯になっちゃって。
防波堤ができるまでは海パン一丁で海に飛び込んでた。夏休みに公民館でみんなで勉強してると「暑いな、泳ぐぞ!」って泳いでた。家にいるとあれやこれやうるさかったからな。
海のそばでバーベキューをやってた。ときには肉だけでなくてカレイとかタナゴとか釣ってそのまま焼いてたよ。大船渡の軟式野球大会の後の打ち上げではここでバーベキューと飲み会って決まってたね。そころ辺を通る人を呼び止めてたんだ。
お寺の墓地で肝試しした。昔はみんな土葬なんで、亡くなった人を入れる白木のカゴが本堂の裏の倉庫に置いてあって、そこまで行ってこいって言われたなぁ。全然何も出なかったけどね。
クジャクを何羽かかってる家があってね、珍しくて。昔仕事してる時に、ここに寄ってクジャクを見に行ってたの。動物園でしか見たことないような見事なクジャクだったよ。
気仙川で鮭を捕まえて遊んでたらば監視員の人に見つかってしまって、学校の先生に連絡が行き怒られたよ、はははっ!昔だから怒られただけで済んだけど、今そんな事したらば完璧に警察行きで罰金だね〜!
五本松っていう松の木の大きな木があって、そこがここら辺の人のたまり場。昔はね、部落運動会っていうね、町民運動会があったのね。そうすると私ら子供の頃は、部落ごとに集められて、応援歌練習をさせられたの。私たちが馬場組っていう部落だったから、先輩の3年の人たちに発破かけられて、「かっ飛ばせ〜!かっ飛ばせ〜!馬場組!!」ってね。
酔仙酒造って昔は製糸工場だったんだけど、近くに母の実家があったんで、遊び場だったんですよね。学校から帰ると、そこの製糸工場があったところでしょっちゅう遊んで。昔だったからね、親戚の家に寄っては、サツマイモ、干しイモとか今頃だったら干し柿とかをおやつにもらって食べて、楽しく従妹たちと遊んだんですけどね。もう広いでしょう?かけっこしたり、製糸工場の社宅街を駆け回ってたんですよ!工場の隙間をくねくねと!そこに同級生なんかもいて、その家に遊びに行ったりしたんですよ。
ここは中学校でしょう。この間の映画のロケ、映画も見に行ってきたのね。昔ね37年前とかに親戚の人監督してて、見に行ったのね。その学研の映画だから学生・子供たち対象に「バトンはVサイン」とかいう映画を上映したの。
シジミね!!海の方でね、大きいシジミが採れたの。シジミ大きいんですよ!普通よりも!!普通こんなちっちゃいでしょう?大きいの、ここのは!法華寺っていうのがあったんだけど、松原の林の中にね。この後ろ側にいっぱい沼っていうのかしら?そこにいっぱいシジミがあったの。
これはね、県が建ててるの。各学校がここへ来て、寝泊まりできるんですよ!すごく広いところだった、確か!グランドも4面くらいありましたから。で、球場があったり、あとはね子どもたちがね、バスケする体育館もあったり。ここに各学校が臨海学校に来て、ここで寝泊まりして盛り上がってたもんね〜。あまり何もない場所ですからね。お泊まりってだけで楽しいですよね!
高田交友館で、どらえもん日本誕生を観に行った。風のまた三郎も上映していたよ。
僕たちの小さい頃は自分たちでモノをつくった時代なんですよ。今みたいにお金出して買う時代じゃない。だからなんでも携わっていると思う。七夕にしろ、遊びのものはね。自分たちでつくって・・・・・・だから想い出が深いんだよ。震災前ってのはね〜駅通りにね、夜なんかね、山車が全部ライトをつけて11台くらいドワーッと並ぶの!これが見事だったんですよ!!手づくりから携わったほうがいいですよ!するともっと感動もあるから。
近所の人で集まって桜まつりなんかしてね。踊りは出るし、歌は出るし。すぐ人が集まったよ。