けせん震災と昔の記憶

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土地
松原を後世に伝えたい

見出し「土地」

2020.12.26  お相手:鈴木善久さん

 東日本大震災の津波により約7万本の松が消失した高田松原。国の名勝と謳われた白砂青松の風景を知らない未来の子どもたちに「あの綺麗な松原を見せたい」と活動をしている。
 「再生に50~60年かかる」と言われている松原再生を、高齢者の役員理事が中心になっている高田松原を守る会が活動している。

松ぼっくりが繋いだたくさんの想い

 国の名勝に指定されるほど白砂青松が綺麗だった高田松原。その松原を後世に伝えたいと2006年に発足した「高田松原を守る会」は、津波により約7万本の松が流され、当時の会長が亡くなった時は再生を諦め「もう解散しよう」という話が出ていた。しかし、小さい頃から高田松原でよく遊んでいた気仙町出身の女性が、震災の前年に高田松原で拾った松ぼっくりから出たたくさんの種を持ってきてくれた時に「やっぱり美しい松原を孫世代にも見せたい」と再生に臨むことを決意する。高田松原を守る会は県・市と共に4万本の植樹に取り組んでおり、高田松原を守る会としては1万本を担い、令和2年時点で9千本の植樹をたくさんのボランティアと共に行った。

高田松原再生植樹祭の様子

高田松原再生植樹祭の様子(2017年)

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雪が積もる中資材を運搬する会長鈴木さん

先人が託した松原の願い

 高田松原の歴史は江戸時代、1667年に菅野杢之助が私財を投じて松植林をしたことから始まる。目的は潮風や高潮・飛び砂などの害から田畑を守るため。だから正式名称は「高田松原海岸防災林」と言う。それから約350年、明治三陸津波・昭和三陸津波・チリ地震津波などたびたび津波に見舞われた陸前高田を守ってきた。1940年には全国で6つしかない国の名勝松原海岸に指定され、「岩手の湘南」と称された海水浴場も含めて年間100万人を超える観光客が訪れていた。1955年に3町5村が合併して市となるまでは「高田松原」「気仙松原」と2つの松原から構成されていた。

窮地に活きた日頃の行い

 震災当時に会長を務めていた2代目は、たくさんの市民の避難誘導を最後まで行い、ご自身は逃げ遅れて亡くなられた。当時副会長の鈴木さんは町内会長を務めており、被災した方などを公民館でお世話していた。普段からご近所との交流が盛んだったため、子どもを見ればどこの家庭の子どもか分かったし、子どもの数も分かるため必要なオムツ数も把握できていた。

箱根山から見た震災前の高田松原(2008年5月)

箱根山から見た震災前の高田松原
(2008年5月)

 暖をとるために山から小枝をとってきて焚くなど、子どもの頃によくやっていたことがとても活きた。10日ほど経った頃にやっと松原を見に行くことができたが、傍まで行かなくても景色が一変していたことが分かった。ほっぺたをつねり「夢であってほしい」と願ったが現実であり、津波を恨んだ。

箱根山から見た震災後の高田松原(2011年7月)

箱根山から見た震災後の高田松原
(2011年7月)

順調に再生している高田松原

順調に再生している高田松原

想いと願いが行きつく未来

 2020年現在、年間延べ300人を超える会員と、延べ1000人を超えるボランティアのおかげで活動できている。あと1000本の植樹を行ったら目標の1万本になるが、植樹を終えた後も松の管理や草刈りなど活動は続く。震災前の松ぼっくりから芽生えた松の子どもたちは600本ほどあり、その松たちが松原になるには50~60年かかるため、「若い人たちにもっと参加してほしい」と鈴木さんは話す。2021年には海水浴場が再開予定の高田松原海岸防災林。草刈りのボランティアを募り、高田松原再生講座などを行いながら、これからも高田松原を守り後世に伝えていく活動を行っていく。

取材者:地域取材チーム 大ちゃん

プロフィール写真

鈴木善久さん


昭和19年に高田町に生まれる。陸前高田で小中高校を過ごし、岩手大学へ進学。教諭免許を取得し、岩手県内の小中学校で理科の先生・教頭・校長を約38年間務める。定年退職後に町内会長やNPO法人高田松原を守る会の会長に就任。