けせん震災と昔の記憶

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土地

見出し「土地」

2020.12.24  お相手:金野庄平さん・妙子さん

 横田町を流れる気仙川は昔から不法投棄が多くありました。散歩をしていた金野さんご夫妻が「散歩コースを綺麗にしたい」と40年前に自主的にゴミ拾いを始めました。
 ゴミがなくなったら今度は「歩きやすく整備しよう」と道路工事の残土をもらい、手押し一輪車で土を運び、スコップとレーキで整地しました。
 散歩しやすくなったら「せっかくだから桜を植えようか」と桜を年に数本ずつ植え、2020年12月現在で約100本の桜並木になりました。
 地域の憩いの場としてだけではなく、岩手県環境保全活動で表彰されるなど、市内外からたくさんの方が訪れています。

「散歩コースが綺麗になってほしい」

 金野庄平さんは、ケガを機に出稼ぎしていた内陸から陸前高田へ、1980年に帰ってきました。その頃の気仙川は不法投棄などによりたくさんのゴミがあり、散歩コースにしていた河川敷の汚さに心を痛めた金野さんご夫婦は、2人でゴミ拾いを始めました。
 ゴミが片付いてきた頃に、土木関係の友人から道路工事で出た残土をもらい、手押し一輪車で何往復も土を運搬。そのあとスコップとレーキで整地しました。機械を一切使わず人力で。やがて整地した河川敷に芝が生えてきました。

土砂画像

この土砂の量を2人で何度も何度も運搬

舟下り画像

手作りのいかだに乗って行われた舟下りイベント

「まさか散歩コースがこうなるとは思わなかった」

 ある時、「河川敷をもっと素敵にしよう」と近くのホームセンターで桜の苗木を買ってきました。これが桜並木の始まりです。年に数本ずつ植えていき、桜の管理もご自身たちで行い、一時期さくらんぼもなっていました。(鳥に花芽を食べられて今はならないそうです)桜の種類は様々あり、静岡県から〝河津桜〟を送ってもらったこともあります。
 河川敷に彩りが出てくると地域の方が足を運ぶようになり、小学生の川遊び、テントを設置してのキャンプイベント、舟下りツアーなど、数十年前にはゴミが散乱していた河川敷に笑い声が溢れるようになりました。

「使いかけの短いろうそくでさえもありがたがられた」

 震災の時は波が近くの川まで遡上してきたけれど、近所の被害はほぼありませんでした。しかし、地震で大きく揺れ、停電と断水が10日ほど続きました。直接的な被害がありませんので支援物資が来ない日々が続き、沢の上流に水を汲みに行ったり薪を拾ってきて薪ストーブを焚くなどして過ごしました。
 商店をやっていましたのでたくさんの方が買いに来てすぐ品薄になり、内陸の方へ何度も仕入れに通いました。ある時、車が流されたため歩いて盛岡へ帰る男性が来店。「何か食べ物が欲しい」とのことでしたので、妙子さんはおにぎりを作って渡しました。その方は現在盛岡市でパン屋さんを営んでおり、たまに陸前高田へお子さんを連れて会いに来てくれます。「このような繋がりができたのは嬉しいけど、一番は今後このような大きな災害が無いことを願います」と妙子さんはお話しされました。

店内画像

レトロなポスターがノスタルジックな雰囲気を作り出す店内

東家画像

毎年春にBBQが行われるブルーシートの東屋

「地域の人が喜んでもらえたらそれでいい」

 ゴミ拾いを始めてから40年。今では約100本の桜が毎年春に太田河川敷に咲き誇っています。他にもチューリップやスイセンを花壇に植えたり、コスモスや椿が咲くようになり、地域の方がグランドゴルフやBBQを楽しんでいます。大人から子どもまで楽しく利用していただくためにトイレや水道がないことが悩みだそうです。
 これからも綺麗な河川敷を保つために、散歩をしながら整備を進めています。対岸にも桜を植え「いずれは気仙川に桜のトンネルを作りたいね」と、83歳の金野さんはキラキラした目で夢を語ってくれました。

取材者:けせん地域取材チーム 大ちゃん

金野庄平さん、妙子さん
金野庄平さん・妙子さん

庄平さん~大船渡市生まれで小学校1年生から陸前高田市に住む。16年間内陸で出稼ぎをし、40年前に陸前高田へ帰ってくる。
妙子さん~1964年に高田町かた横田町に嫁ぐ。高田町の実家は津波により流される。