2021.1.22 お相手:熊谷光洋さん
岩手県陸前高田市の米崎りんご農家の仙果園には約130年前に植樹されたリンゴの木が残っています。明 治38年に創業した神田葡萄園も、実はブドウを始めるよりも20年以 上前からナシを育てていました。米崎の果樹栽培の歴史は古く、明 治9~13年頃に気仙大工たちによって始められました。仙果園の初 代吉田勘之助も、神田葡萄園の熊谷福松も元はどうやら気仙大工 だったようです。出稼ぎで全国を飛び歩いていた気仙大工たちが、 故郷の米崎に根を張り、農家になる……そのきっかけが、彼ら気仙 大工の傑作のひとつにして、500年以上米崎を見守ってきたあの普 門寺にあった!というおはなしです。
棟梁、ナシを植える
明治10年(1877)、現在の普門寺本堂が造営されました。慶応3年
(1867)の焼失から10年。米崎村(現・米崎町)の人々にとっては悲
願のことだったでしょう。それはきっと、棟梁としてその造営に尽力し
た気仙大工、金野圓作(きんのえんさく)にとっても同じこと。
『米崎村史』を引用した書籍によると、圓作はこの前年の明治9年(1
876)、出稼ぎ先の赤井村(現・宮城県東松島市)からナシの穂木を
持ち帰り故郷の米崎に植えています。これは先述の福松や勘之助よ
りも3年以上早く、米崎の果樹栽培、最古の記録のひとつです。
普門寺本堂の棟札に残る棟梁金野圓作の名前
一般的にナシは最初の実りを迎えるまで3~4年が必要です。また、
大きな本堂の建築も数年がかりの事業でしょうから、明治9年から始
めたナシ栽培と明治10年に完成した本堂建設は、同時進行でおこ
なわれていたと推測できますが、はっきりとしたことは分かっていませ
ん。
気仙大工たちは出稼ぎに出ずとも、故郷で一年中家族と暮らしたい
という思いから果樹栽培をはじめたといわれています。故郷で建てた
本堂に自らの名の入った棟札が掲げられたとき、圓作は何を思っ
て、その後どうしていく決断をしたのでしょうか。今となっては想像す
ることしかできません。
米崎で最初期にリンゴが植えられた推定地
和尚、リンゴを植える
『陸前高田ものがたり第5集』(陸前高田老人クラブ連合会 編)による と大正初期、普門寺の境内には5本のリンゴの老木があったようで す。老木と表現するからには少なくとも樹齢30~40年ほどは経って いたのではないでしょうか? 米崎に現存する最古のリンゴ、仙果園 の古木が明治22年頃に植樹されたものですから、それよりも古い時 代に植えられたとも考えられます。
現住職である熊谷光洋さんに尋ねると、境内にかつてリンゴが植え
られていた(現在の参道脇にあるリンゴ畑とは別物)ということは確か
に事実のようです。ただし、その5本のリンゴは残念ながら現存して
いません。その場所には杉が植えられ、さらに後年にはそれも伐採
されています。
5本のリンゴは普門寺の24世住職、教山和尚(明治45年寂)によっ
て植えられたものでした。その苗木は、教山和尚が横浜あたりを訪
れた際に買い求めたものです。中野村(現・盛岡市)の古澤林も明
治5年(1872)に横浜で苗木を購入し、岩手県最初期のリンゴ栽培
をはじめていますので、もしかしたら、教山和尚もそういった情報をど
こかで仕入れていたのかもしれません。
教山和尚は、先代の23世廬山和尚が、あの金野圓作も関わった本
堂再建の悲願を達成した、その次の代の住職です。本堂再建という
寺をあげた一大プロジェクトを終え、「比較的時間に余裕があった時
期だったのでは?」と光洋さんは言います。そんな折、「なにか新し
いことはないか」と探し求め、可能性を感じたもののひとつがリンゴ
だったのでしょう。
5本の木から収穫されたリンゴは、普門寺と親しくしていた檀家や米
崎村民たちも味わっていたに違いありません。明確な記述は残って
いませんが、歴史的な事実から逆算していくと、現在まで続く米崎り
んご、その原点のひとつが教山和尚のリンゴがあったのだろうと考え
られます。
福井の人々、米崎りんごを知る
米崎の果樹栽培はその長い歴史の中で何度も逆境に立たされてき
ました。国策による米の増産のため、果樹栽培が制限された太平洋
戦争。離農に拍車をかけたバブル経済の時代。そして、2011年3月
11日に発生した東日本大震災と津波被害。
リンゴ畑の多くは高台にありますので、平地に拡がっている水田など
に比べて津波被害は限定的ではありましたが、米崎のリンゴ農家た
ちも当然、ライフラインを失った中での被災生活を余儀なくされまし
た。
震災後も継続して陸前高田を応援
してくれているチームふくいの活動
(2017年11月
台風による落下リンゴの収集と販売の様子)
しかし、リンゴをはじめとする果樹は、何年も何年も世話をしてようや
く実りを迎える作物です。「被災したから今年だけ休む」ということが
できません。自らの生活もやっとの状況の中で、農家の方々は被災
した3月のうちから農作業を再開していました。機材や苗木を運搬す
るための燃料もなかなか入手できない状況での作業でした。
一方、普門寺も米崎の高台にありますので、震災当日、避難者を迎
え入れる準備をしていました。しかし、予想に反してほとんど誰も
やって来なかったそうです。どうやら地竹沢や糠塚沢など普門寺の
周辺地区は低地と高台の中間あたりにそれぞれ公民館がありますの
で、多くの人はそちらに避難していたようでした。
そういう事情もあり普門寺は、駆けつけてきた福井県の災害ボラン
ティア「チームふくい」の拠点として活用されることになりました。チー
ムふくいは瓦礫の撤去などの災害復興ボランティアから始まり、秋に
なればリンゴの販売のお手伝い、翌年2012年以降も地竹沢地区を
中心に、農作業支援などもおこなっています。そういう縁もあり福井
県の方々は、今でも毎年、たくさんの米崎りんごを購入してくださっ
ています。2017年11月の台風被害時にも福井県から駆けつけ、落
下リンゴを収集し、福井県での販売をおこなってくれました。
「震災がなければ生まれなかった縁」もあると住職はいいます。震災
は多くのものを奪っていきましたが、新しい縁を紡いできたこともまた
事実です。
数々の苦難に直面して尚、それらを乗り越え現在へと続いてきた米
崎りんご。はじまりの地である普門寺に見守られながら、そして、新し
い出会いに生かされながら、後世へと受け継がれていくことを願わず
にはいられません。
取材者:地域取材チーム Yugo Hiraide
熊谷光洋さん
陸前高田市在住。海岸山普門寺の30世住職。普門寺では震災時、ボランティア拠点 としての受け入れ、身元不明の遺骨受け入れなどもおこなってきた。 陸前高田を観光で盛り上げるためにもっと普門寺を活用してもらい たいと考えている。