けせん震災と昔の記憶

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震災
縁さんの体験談

見出し「震災」

2021.2.8  お相手:小林縁さん

 小林縁(こばやしゆかり)さんは現在4児の母。震災当時第3子を妊娠中でした。4歳の娘さんと1才7ヶ月の息子さんと縁さんのお母さんと4人で自宅にいたときに地震に遭いました。

町がない

 縁さんは妊娠4ヵ月。体調が悪く「安静に」と言われていました。娘さんは高田幼稚園の年少さん。息子さんは1才7ヶ月。自宅で遊んでいました。いつもなら幼稚園のお迎えは14:30頃。しかし3月11日は午前保育だった為、迎えを済ませて自宅にいました。縁さんと子ども2人、そして体調が悪い縁さんを手伝いに来てくれていたお母さんと4人でいたところに地震発生。上から物がたくさん落ちてきたそうです。縁さんが娘さんを、お母さんが息子さんを抱え裸足で家を飛び出しました。犬を飼っていたので、4人と犬1匹で急いで車に乗り、近くの空き地に避難。縁さんたちが空き地にいた時、旦那さんが大船渡の現場から戻って来ました。その時、旦那さんは「高田の町がない」と縁さんたちに言ったそうです。縁さんは「高田の町がない???」あまりピンとこなかったと言います。

動けない

 旦那さんのご実家は高い所にあり、津波の被害にはあいませんでした。縁さんの自宅も津波の被害にあいませんでしたが、地震の影響で住める状態ではなかったので、縁さん家族は旦那さんのご実家にお世話になることになりました。しかし、体調が悪かった縁さんは、なかなか手伝うことができず申し訳ない気持ちだったと言います。
 地震から4日目、縁さんは検診のため大船渡病院へ。検診してもらうと体調も良くなっており、お医者さんから「動いてもいいよ」と言われました。

縁さんの体験談1

子どもたちは

 米崎保育園が老朽化の為、新しい園舎を建てていました。向かい側の旧園舎を壊す予定でしたが、娘さんが通っていた幼稚園はなくなり、高田保育園も被災してしまったので、旧米崎保育園を借りて高田保育園が再会。もともと保育園に通ってた子どもたちはスムーズに入ることができましたが、幼稚園に通ってた子どもたちは手続きに時間がかかり、入るのに時間がかかったそうです。縁さんはお腹が大きかった為、比較的早く入れたといいます。「エアコンもないし、雨漏りもしていたり先生方も大変だったと思う。」と縁さん。4年後、高田保育所は再建されましたが、息子さんは間に合わず、旧米崎保育園で卒園しました。

縁さんの体験談2

当たり前だったのに

 地震発生後、いつもなら当たり前にできていたことが出来なくなりました。水が出ない、電気が付かない、そして食べる物に困る。皆、菓子パンやカップ麺の食事が続きました。現代は妊婦さんの体重管理がとても厳しいです。 妊娠していた縁さんも体重管理がとても大変だったといいます。その事を看護師さんに相談すると、「栄養バランスではなく、今は食べれる物を食べて!」と言われたそうです。縁さんは、「食べていいんだ。」とほっとしたと言います。

 無事、9月に元気な男の子が産まれました。しかし、オムツやミルクがない状態は続いており、自宅が被災していなかった縁さんたちは物資をもらいに行くこともできず、友人から分けてもらっていたといいます。縁さんは、「被災地だけど被災者じゃないから…」と。とても考えさせられる一言です。
 また、2番目の息子さんも震災をきっかけに喘息になったり、2度目の突発性発疹になったりと、体調を崩し病院に通っていました。

最後に

 当時4歳だった娘さんは中学2年生に。1才7ヶ月だった息子さんは小学5年生に。そしてお腹にいた子は小学3年生になりました。その後、子を授かり次女が産まれ、現在5歳。中学2年生の娘さんは震災のことを少し覚えているといいます。5年生の息子さんと3年生の息子さん、そして末の娘さんは震災のことを全然わからないといいます。震災後数年、学校の授業中サイレンを聞いて取り乱してしまったり、具合が悪くなってしまう子どももいたそうです。「うちの子どもたちもあの頃は過剰に反応していた。」と縁さんは言います。
 縁さんの友人や、幼稚園に通っていた娘さんの友人も亡くなりました。「10年たっても引きずってしまう。コロナで忘れかけてるけど、忘れちゃいけない。」と話してくださいました。

取材者:けせん地域取材チーム お~ふなとちゃん

プロフィール写真

小林縁さん


陸前高田市在住。中学2年生、小学5年生、小学3年生、5歳のお子さんのお母さん。仕事に育児に奮闘中!