けせん震災と昔の記憶

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震災
高校3年生の時

見出し「震災」

2021.1.30  お相手:須賀景一さん

 当時高校3年生だった須賀景一さんは、高校の卒業式を3月1日に終え、11日は陸前高田ドライビング・スクールにいました。ドライビング・スクールで津波を見た景一さんは、現実とは思えなかったと言います。その後、大船渡に送ってもらった景一さんは、自宅を目指して歩き始めました。

卒業式の10日後でした

 震災当時高校3年生だった須賀景一さん。彼は、陸前高田ドライビング・スクールにいました。所内で運転していたところ地震が発生。揺れが大きくハンドルをとられので車を止めたそうです。すると、直後に車から1m先が地割れし始めました。揺れが落ち着いてから、生徒は校舎の前に集められました。この時点で誰とも連絡が取れなかったと言います。

陸前高田ドライビング・スクール

陸前高田ドライビング・スクール

大船渡高校付近

大船渡高校付近

現実???

 所内から下が見えるところがあります。友人とそこに行くとすでに津波が来ていたそうです。「遅くても20~30分後のことだった。家が基礎ごと流されていて、自分の目の前で起きてることが現実とは思えなかった。隣にいた友人もまったく理解できていない様子だった。」と景一さんは言います。
 その後、ドライビング・スクールは生徒たちを家に帰すことにしまた。大船渡から通っていたのは景一さんを含め5~6人。景一さんたちは、三陸道を通り大船渡ICで降りて大船渡まで来ました。そこから猪川方面に向かい大船渡高校付近で景一さんは降ろされました。この時の時刻は、18~19時頃。このあと景一さんは、自宅がある大船渡町まで歩いたそうです。川が氾濫していたので中井橋は通れません。国道を通って自宅に向かいました。途中、普段ならある道路がなくなっていたり、ガス漏れをしているところもあり恐怖を感じたそうです。「歩いているとだんだん現実味がでてきた。早く家族と合流しないと。」と景一さんは感じたと言います。

自宅に着いたが…

 約4kmほど歩いた景一さんは自宅に着きました。すると、自宅は津波の被害にあっており、自宅は残っていたものの、ぐちゃぐちゃになっていました。「家に丸太が2~3本刺さっていた。これを見たとたん現実なんだと思った。これは大変だ。家族はどうなったんだろう…探さないと!」と焦りを感じたと言います。この時の時刻は20時頃でした。
 暗闇のなか1時間ほど家族を探した景一さんは、富沢公民館にたどり着きました。公民館でしばらく休憩したそうです。すると、どこからか景一さんの情報を聞き付け、家族が公民館に来たそうです。家族に会えた景一さんは「やっと会えた。生きてて本当によかった。」と思ったと言います。夜中の1~2時、景一さんは家族と再会することができました。

右側の白い建物が富沢公民館

右側の白い建物が富沢公民館

高校3年1

その後

 地震が発生してから1週間ほどで友人や知人の安否の情報が聞こえてきたと言います。さらに1週間後、高校の担任の先生から連絡がきて、後日生徒は陸前高田市内にあるサンビレッジに集まるように言われました。「みんな無事だといいな…」と思いながらサンビレッジに向かったと景一さんは言います。サンビレッジに着くと友人たちに会えて安心したものの、行方不明になった友人や知人、亡くなってしまった友人や知人、先生もいたことを知りました。「あの時はとても辛かった。まさか自分が被災するなんて考えたこともなかったし、18歳でたくさんの人を亡くすなんて…」その後、景一さんは友人の葬儀に4度参列しました。そして、今も行方不明の友人もいるそうです。

 「1度高台へ避難したが家族を探しに下へさがり、そのときに津波にあって亡くなってしまった友人もいる。絶対に戻っては行けないし、災害にあったときどうするかを家族でしっかり話し合って欲しい。当時の私は防災の知識などまったくなかった。現在の高校生や中学生、子どもたちには、防災の知識をしっかり持っていてほしい。そして、また大きな災害が起きたときに多くの命が犠牲にならないようにして欲しい。」と最後に話してくださいました。

取材者:地域取材チーム お~ふなとちゃん

プロフィール写真

須賀景一さん


1992年生まれ。現在28歳。高校を卒業後、仙台の専門学校に進学。専門学校を卒業後、東京の会社に就職。現在も東京に在住。