けせん震災と昔の記憶

けせん震災と昔の記憶

うごく七夕まつりについて

Tanabata Festival

陸前高田市高田町で毎年8月7日に行われる「うごく七夕祭り」は、江戸時代から受け継がれてきた伝統の祭りです。部落単位で 山車 だし や装飾を制作し、街中を練り歩きます。飾りや囃子は部落ごとに異なり、それを魅せ合うのもひとつの楽しみです。

七夕まつり画像

七夕祭りと初盆の関係

全国的な七夕祭りは7月7日ですが、陸前高田の七夕祭りは8月7日です。先祖供養も兼ねて始まったような形で、“初盆”は8月7日、“お盆”は全国共通の8月13日になっています。2回に分けることで忙しさを分散させ、8月7日は初盆のお墓参りをしてから、七夕祭りに参加します。
団塊の世代が子どもの頃、高田中学校(現陸前高田市立第一中学校)は各学年4クラス、1クラスに50人ほどがいました。子どもも大人も一緒になって七夕祭りをつくりあげる時代だったため、小中学生が「飾り」をつくり、大人は「山車」を組んで飾りを取り付けて、「運行」を仕切ったり「囃子」をやったりしていました。高田町に住む人のほとんどが祭りの準備に参加する、地域一丸となるお祭りでした。

変わりゆく形

団塊の世代が生まれるもっと前の山車の作り方は文献など残っていませんが、カシかケヤキの丸太を輪切りにしたものを車輪としていた、つまりゴム製のタイヤではありませんでした。その車輪に台を乗せて重心を安定させるための土のうを積み、その台の上に杉の長木を立てて、更に長い竹を繋いで、あざふ※1と称する赤い紙を縛っていたそうです。
七夕祭りでは、他の部落と「竹の高さ」を競うのが始まりだったとか。電線が設置されてから竹がひっかかって危ないということで、現在のように割竹を下に垂らしたものに色鮮やかなあざふを付け、「装飾」や「囃子」を魅せ合うようになりました。
囃子の太鼓は「歩み太鼓」と「休み太鼓」の2パターンのリズムがありますが、叩き方や抑揚の付け方とかが昔と丸っきり違うんだとか。笛もずいぶん変わって、昔は今より2倍、3倍の指を動かしたり、転がしながら穴を押さえたり。「ピー」と吹くのも、昔は笹を入れて「ピロロ」と吹いたり、きめ細かい音を出したとのことです。

※1 和紙を折って作る飾り。色は部落によって異なり、毎年色を変えて綺麗さを魅せ合う。
※東日本大震災前は12部落が七夕祭りに参加していました。(森の前、大石、鳴石、駅前、中央、大町、荒町、和野、松原、川原、長砂、沼田)

うごく七夕まつり動画

Tanabata Movie

どんなルートで街中を練り歩いていたか思い出してみましょう。

この取組みは「令和4年度「心の復興」事業 被災者支援事業」の助成を受けて実施しています。